目次

エアバス社が誕生するにはアメリカが深くかかわっていた!

1.エアバス発想
現在ではエアバスといえば、ヨーロッパ協同の航空機メーカーであるエアバス・インダストリー社製の、A300をフラッグシップとする旅客機群のことだと誰でも思うだろうが、もともとエアバスは固有名詞ではなく、あるジャンルの機種を指す普通名詞だったのだ。


エアバスの参戦
エアバス社が発足した1970年前後は欧州メーカーが勢いを失い、米国メーカーの市場寡占化が進んでいた。前述の英国製コメット機の失敗、仏製ダッソーメルキュール機など、多くの欧州機は商業的には失敗作であった。

エアバス社はこれに対抗するため、フランスやドイツ等のメーカーが複数参加し設立された。最初の作品・エアバスA300は欧州内の中距離用に開発された双発の機体で、直接ボーイング機とは競合しないクラスではあったが、販売面では苦戦した。

石油ショックの影響もあり、新参機への関心は鈍かった。エアバス社ではその打開策として米国エアラインへの売り込みを強化した。機体の一定期間無料での貸し出しや損益保証、さらには空港施設の改修費まで負担するという破格の申し出がなされた。

結果、意中のエアラインであったイースタン航空からの受注に成功し、他社からの発注にも弾みがつき、同サイズの双発機として1982年にボーイング767が登場するまで右肩上がりの生産機数を誇った。A300は改良を繰り返しながら派生型A310やA300―600を産み出すなどし、2007年まで生産が続いた。

エアバスの生みの親は、アメリカン航空の技術担当筆頭副社長だったフランク・コークと言われている。彼が出張のときに雨のニューヨーク・ラガーディア空港で大混雑に遭遇し、新しい大型旅客機の必要性を痛感した、と言うのがエアバス誕生にまつわる伝説だ。

コーク副社長が雨の空港でアイディアを得たか否かは別にしてエアバスの構想がアメリカン航空からメーカーに提示された、新大型旅客機の要求仕様書に端を発したことは事実だ。1966年3月のことだった。

アメリカン航空が要求したのは、発達型の大型双発・中距離用旅客機だった。つまり双発の巨人機だ。要求仕様書には、70~80年代に需要の多い米国内の都市間のルートで幅広く使える中・短距離機で、客席数はオール・コーチ(エコノミー)クラス配置で250席、航続距離は1850海里(3426キロ)などと機体の性格が細かく書かれていた。アメリカン航空ではこの機体を「ジャンボ・ツイン」と称していたが、メーカー側ではズバリ「コークズ・マシーン」と呼んでいたという。

結論を言ってしまうと、このコークのアイディアは、結局マクダネルダグラスDC‐10、ロッキードL‐1011トライスターとして実現するわけだが、当初の要求と実際に完成したこの二機種との間にかなりの差がある。

DC‐10、トライスターともに三発機だし、座席数は300席以上、航続距離も米大陸無着陸横断が可能なまで延びている。これは研究・開発の過程で「新しい大型機」の性格が大きく変わったことを意味している。

アメリカン航空が要求を出した頃は、米大陸横断の幹線にはSSTが就航し、エアバスはこのSST路線を補完する各都市間を結ぶ機体になると考えられていたのだ。ところがエアバス構想が固まっていく段階で、アメリカのSST開発の前途が暗くなり、代わってエアバスが70年代以降の米国内幹線の主力機材としてクローズアップされ、性格も変わってきたのだった。

2. DC‐10は70年に初飛行、71年アメリカン航空で初就航、トライスターは70年初飛行、72年にイースタン航空で初就航している。先に登場していたジャンボとともに、空の大量輸送時代、ジャンボ・エアバス時代到来などと言われたものだった。

ところで日本ではDC‐10とトライスターの二機種を、何のためらいもなくエアバスと総称していたが、実はアメリカでは計画当初からエアバスと呼ぶのを避けていた。イースタン航空が初めて導入した、都市間のバス式の運航方式(予約不要、切符も機内で買える)のエア・シャトルと混同されて、安っぽいイメージになるのを嫌ったためだった。

逆に当初からズバリ「エアバス」の名で研究をスタートしたのが、ヨーロッパ諸国だった。ついには協同でエアバス・インダストリーという会社を設立、エアバスA300を誕生させてしまった。試作機が72年に初飛行し、74年にエール・フランスのパリ~ロンドン線に初就航した。これでエアバスは固有名訶化した。
ちなみにヨーロッパ製のA300は双発、250席、中・短距離用で、コークが初めに構想した「エアバス」に最も近い機体になっていた。

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