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戦後日本の航空産業は遅れをとったが航空憲法により発展できた

1.現在の日本の航空をめぐる状況には、特に高度成長期の航空行政の影響が色濃く残っています。戦後、敗戦国であった日本では、航空産業の発展が抑制されていました。日本の再軍備を防ごうとする占領国側の意向から、日本には航空の自主権が認められていなかったのです。

この権利が本格的に回復され、日本が自分たちの力で航空機を飛ばすことができるようになったのは、日本が国際社会への復帰を遂げた1950年代になってからです。

それに対応すべく、1953年10月、日本航空が特殊法人として設立されました。さらに1958年には、日本ヘリコプターと極東航空が合併して全日空(全日本空輸)が誕生、そして1971年には東亜航空と国内航空が合併し、東亜国内航空ができました。ここに、戦後長く保たれることになる国内3社体制が確立したわけです。この時点で、日本の航空会社は欧米に比べて大きく後れをとっていました。 一方、大戦で内地の損傷を受けなかった分、経済的ダメージも比較的小さかった米国では、航空会社の強大な経済力を背景にして、世界で断トツの強さを見せるようになっていました。

実際、航空産業の発展状況は、その国の経済発展の度合いを象徴するものとしてとらえられます。というのは、自国の航空会社を持つためには、それ相応の技術力・資金力が必要となるからです。裏を返せば、航空産業を発展させられること自体が、その国の経済的・技術的実力の証しとなり得るわけです。
そこで日本は、航空産業におけるこの後れを取り戻すために、特別の政策を導入しました。それがいわゆる「航空憲法」です。

「航空憲法」という名前の憲法が実際にあるわけではありません。これは、日本の航空会社を世界に引けをとらない水準にまで育成するための保護政策の通称です。昭和45年(1970年)に閣議で了解され、昭和47年(1972年)に運輸大臣から示達されたことから、「45・47体制」とも呼ばれます。政府は、これによって国内の航空会社に利益を確保させ、発展のための投資を容易にしようとしたのです。

航空憲法のねらいの1つは、航空会社間の競争を抑制することでした。航空機を買ったり、整備体制を整えたりしなければならない航空産業では、先行投資・固定投資の額が非常に大きくなります。それをできるだけ早急に回収しようとすれば、できるだけ多くの利用者を獲得しなければなりません。そのため、航空会社間の競争は非常に激しくなる傾向があります。

しかし、まだ実力のない段階でこのようなつぶし合いが起こってしまえば、いつまで経っても世界の強大な航空会社に太刀打ちできるような規模にまで成長することはできません。そこで、3社間の競争を最小限に抑え、それぞれの収益を確保させる代わりに、それを成長のための投資に回させるような支援体制を国として構築したのです。

2. また、航空憲法のもう1つのねらいは、航空産業の公益性を確保することにもありました。離島路線のように、航空機が飛ばなければ生活に支障を生じるような場所や、鉄道など他の高速交通機関が十分に発達していないため、航空機がないと大都市とのつながりが希薄になり、経済発展が阻害されるような場所などへの路線運航は、公益性が高いとしても、まず採算はとれません。そのような路線には、他で確保した収益の一部を充てることによって、運航を維持させたのです。いわゆる「内部補助体制」による公益性の保障です。

この結果、「日本航空は国際線と一部国内幹線」「全日空は国内幹線と一部ローカル線、そして将来の国際線への進出を見据えた上での国際チャーター便の運航」「東亜国内航空は国内ローカル線と一部国内幹線」という事業領域のすみ分けが進みました(当時の「幹線」とは、千歳・羽田・小牧・伊丹・板付・那覇の6港を相互に結ぶ路線)。1986年の規制緩和以降も、年間100万人以上の利用者がある路線については、3社が同時に乗り入れることを認め(トリプルトラッキング)、年間利用者70万人以上の路線には、2社の同時乗り入れを認めるようにしました(ダブルトラッキング)。これによって、過当競争に一定の歯止めをかけたのです。

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