最初の爆撃は手投式
爆撃機も戦闘機と同じように、偵察機から派生していった機種である。偵察機のパイロットが、偵察をしたついでに、敵陣に小さな爆弾を手で落としていった。これが思いのほか効果的だったので、第一次世界大戦中に、爆弾を積んで敵地に落としてくる専用の飛行機が開発された。爆撃機の誕生である。
当初は水平飛行中に爆弾を落とす水平爆撃が主流であった。しかし、爆撃照準器が発明されたとはいえ、その命中率は低く、それに変わる手段が模索されていた。そこで考案されたのが降下爆撃と呼ばれる方式で、目標物に飛行機ごと突っ込んでいき爆弾を投下するというもの。
一般に急降下爆撃として知られる。この方法なら目標物の直近まで接近して爆弾を落とせるので、命中率は格段に向上する。また、飛行機は加速しながら爆弾を投下するので、爆弾に慣性が働き、自由落下の爆弾よりも破壊力を高めることができる。
戦術爆撃から戦略爆撃に
急降下爆撃機は第二次世界大戦で大活躍した。日本では九九式艦上爆撃機、ドイツではJu87シュトウーカ、アメリカではSB2Cヘルダイバーなどが有名である。どの機体も戦地で大きな戦果をあげている。
しかし、現在では急降下爆撃機は運用されていない。それは、命中率はあがるがそれだけ危険性もあがり、また目標物に自動追尾できるミサイルが発明された以上、急降下して艦艇などを爆撃する必要がなくなったからだ。
水平爆撃をする爆撃機は、エンジンの性能が向上していくにつれ、大型化していった。これは、命中率が期待できないのなら、大量の爆弾を積んで大量に目標物に落とせばいいという戦略に変わったからだ。やがてその思想は戦地において限定的に行われる戦術爆撃から、敵国の根幹まで破壊してしまおうという戦略爆撃という戦法を生み出した。
戦術爆撃とは敵の陣地や兵器を目標物とした爆撃方法で、第二次世界大戦前はこの戦法が主流であった。
一方戦略爆撃とは、陣地や兵器を破壊するのではなく、兵器工場や発電施設、または農地や居住区までも爆撃し、国自体が成り立たないようにする戦法である。これは大型爆撃機を大量に保有することができる国だけが使える戦法で、第二次世界大戦では日本とドイツがこの戦法により、アメリカにとどめを刺された。
急降下爆撃機という機種は日本の航空機ファンの間ではよく知られている。それというのも、日本海軍航空隊と陸軍航空隊は、いずれもこの機種を非常に有効活用していたからだ。他に急降下爆撃機を有効に運用した国というとアメリカとドイツ、そしてやや劣ってイギリスの合わせて4カ国しかない。
爆撃機を垂直に近い急角度で降下させ、至近から爆弾を投下するという戦法は1920年代のアメリカで考案された。それに素早く反応したのが日本とドイツであり、この3カ国を舞台に、第二次世界大戦/太平洋戦争に至る間に急激にその技術を進化させることとなった。
ドイツの場合はまず複葉のヘンシェルHs123からユンカースJu87へ、Ju87はスツーカの愛称と共に、ヨーロッパ戦線においてはまさに急降下爆撃機の代名詞的存在となった。ドイツはこの他、ユンカースJu88といった双発爆撃機にも急降下爆撃能力を付加した。
対してアメリカはカーチスF8Cヘルダイバー(初代)からカーチスSBCヘルダイバー(二代)を経てダグラスSBDドーントレス(ミッドウェー海戦で活躍)、そして最終的にはカーチスSB2Cヘルダイバー(三代)へと引き継がれた。
一方日本はというと、 ドイツから技術導入したハインケルHe66に範を取った九四式艦上爆撃機と、その性能向上型である九六式艦上爆撃機を経て、太平洋戦争開戦時の主力機。九九式艦上爆撃機を開発。真珠湾攻撃など主に艦船への攻撃に用いられた。
その爆撃命中精度は戦場によっては80%以上に達したといわれ、名実共に大平洋戦域における最高性能の急降下爆撃機となる。ちなみに陸軍航空隊の方では、急降下爆撃機という呼称こそ積極的に使ってはいなかったものの、九七式軽爆撃機や九九式襲撃機、そして九九式双発軽爆撃機といった機体は、いずれも急降下爆撃能力を備えていた。
また日本海軍では九九式艦上爆撃機の後継として、やはりドイツのハインケルHel18の影響を強く受けていた彗星を実戦に投入。太平洋戦争後半の主力艦上爆撃機としたが、その時点でパイロットの質の低下が著しかったこともあり、戦果は九九式に及ぶところではなかった。
そしてその後継機たる流星は、急降下爆撃能力に加え、機動性の面でも極めて優れていた機体だったが、就役が遅く実戦での活躍はわずかだった。
急降下爆撃機のランキング1位は、誰が何と言おうと日本海軍九九式艦上爆撃機。そして2位にはユンカースJu87スツーカ、そして3位にはダグラスSBDドーントレスということで異論は出ないはずだ。ちなみにイギリス海軍だが、初期に装備していたブラックバーン・スクア、そしてその後継機フェアリー・バラクーダのいずれも性能的には不十分だった上に量産も進まず、最終的に相当数をアメリカから輸入したドーントレスでまかなっていたことからも、その資質がうかがい知れるというものである。
ひとくちに地上襲撃機と言っても、その任務は第二次世界大戦初期と後期では異なっている。初期の地上襲撃機はいわゆる急降下爆撃機と同義であり、地上の歩兵部隊や野砲部隊などを攻撃するのが任務だった。その代表はユンカースJu87である。しかし大戦中期以降になると、急降下爆撃機に大回径の機関砲を搭載し、戦車にとって最大の弱点だった車体上面を狙い撃ちして破壊するという新しい戦法が考案された。
ここでもまず37mm機関砲ポッドを主翼下に吊り下げたユンカースJu87が、東部戦線においてソ連戦車への攻撃を始めることとなる。これに対して相手のソ連空軍は、強力な武装に加えて操縦席全体を強固な装甲板で覆った地上襲撃機、イリューシンIL-2の派生型に、37mmや45mmといった対戦車砲をベースとした強力な機関砲を装備し、ドイツ戦車に対抗することとなった。
ちなみに基本設計が古く、改修もほぼ限界に達していたユンカースJu87に対して、原型初飛行が第二次世界大戦勃発後だったイリューシンIL-2は、被弾に対する耐性が極めて強力であり、ドイツ側は戦線での優位が次第に失われるようになると、新型機の開発を急ぐこととなった。
ここで登場したのがヘンシェルHs129だった。単a発のJu87に対してHs129はパワーに余裕がある双発とし、操縦席や
エンジン、燃料タンク下面といった重要部分にはIL-2に負けない重装甲を施した、改造型ではない本格的な対戦車襲撃機だった。その主砲は37mmもしくは75mm砲と航空機に装備できる機関砲としてはまさに限界サイズであり、重装甲を誇ったソ連のKV‐
1やJS-2といった重戦車も一発で破壊することができたと言われている。
とはいえHs129はトラブルも多かった上に生産機数も少なく、兵器としての稼働率には問題があった。それに対してあらゆる意味で熟成がなっていたユンカースJu87は、少なくとも他機からの攻撃を防ぐための制空権さえ確保されていれば、まさに自由自在に機動することができた。この機体を駆ったパイロットの中からハンス・ウルリッヒ・ルーデルといった500両以上もの戦車を撃破したエースが登場したことから見ても、その兵器としての完成度は極めて高かった。
イリューシンIL-2も、その持ち前の信頼性の高さゆえ前線からの要望も大きく、最終的に3万6000機以上という恐るべき数が量産されたともいわれており、こちらも兵器としての存在意義は極めて大きかった。なお、ユンカースJu87には「スツーカ」、イリューシンIL-2には「シュトルモビク」というニックネームが付いているのだが、前者は「急降下爆撃機」、後者は「対地攻撃機」を意味する言葉であり、いずれも個々の機体に対するニックネームというよりは、総称が転じてニックネームになったものだった。
さて結論である。ここでは対象となる機体がそれほど多くないこともあり1位はユンカースJu87スツーカ(対戦車機関砲装備型)、2位にはイリューシンIL-2シュトルモビク、そして3位にはヘンシェルHs129としたい。
なお余談ながら日本陸軍航空隊が太平洋戦争末期に未制式採用のまま実戦に投入したキ102双発戦闘機も、57mm機関砲装備型は対戦車攻撃を想定していたと言われている。
この種の機体は他に試作機のキ93があったが、実戦には間に合わなかった。
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