人類が初めて空を飛んだのは熱気球という方法だった。フランス革命前のパリでモンゴルフィエ兄弟が飛ばしたとある(1783年9月19日).1785年1月7日にはジャン・ピエール・プランシャールとジョン・ジェフリーズが気球でイギリスのドーバーからフランスのカレーまで英仏海峡横断に成功している。これに伴って空についての規則(警察命令)がフランスででき、世界で初めての国際航空法会議が1889年にパリで開催された。これが
航空についての国際的な規制が取り上げられた最初である。
動力飛行機が初めて空を飛んだのは1903年、米国のノースカロライナ州のキティ・ホークでライト兄弟によることはよく知られている。シカゴ条約(第2章)の第7付属書に定義される重航空機(推進用の動力装置を備えた固定翼のある重航空機)が歴史上初めて空を飛んだのである。
ライト兄弟は印刷機械の製作や自転車の製作、修理の技術は具えていたが、高度な航空工学の知識を持っていたわけではない(2人とも高校を修了していない)。それでもその初飛行の成功にはきわめて科学的なアプローチとグライダーでの徹底した試験飛行による飛行方式の確立とを組み合わせたことが指摘されている。
兄弟はグライダ一実験に大きな影響を及ぼした構造技術の第一人者であるオクタブ・シャヌートやグライダーの父と呼ばれるオットー・リリエンタールが公表していたさまざまなデータを丹念に学んでいたのである。
実際にグライダーの試験飛行を繰り返し実施し操縦方式の確立や技術の習熟に注力した。そして飛行機のもっぱら操縦技術面、主翼をねじる方法で機体をバンク(傾ける)させ旋回する仕組みに焦点を当てた特許については、動力飛行の前にすでに出願していた。当初から飛行機の事業化を考え技術の盗難防止にも神経を払っており、住んでいたオハイオ州デイトンから800kmも離れた人目に付かない砂地の風の強い広野であるキティ・ホークを選んでグライダーの実験を繰り返していた。当時としては画期的な風洞実験によるデータの積み重ねに基づく最適な翼形状の決定やそれに立脚した科学的なアプローチは現代でも高く評価されている。
ライト兄弟と同じ時期にペンシルベニア・ウエスタン大学の天文学・物理学の教授で後にスミソニアン協会理事長になるサミュエル・ピアポント・ラングレーは、 1896年に蒸気エンジンを搭載した模型飛行機の飛行に成功し、政府から資金援助を受け有人飛行の実験を進めていた。実際にはライト兄弟よりも早く1903年の10月と12月にポトマック川で動力飛行を実施するが2回とも失敗する。空気力の計測や軽量エンジンの開発にはすでに成功しており、ライト兄弟をはるかにしのいでいたが、操縦方式を考慮しなかったのが失敗の原因だと考えられている。
2.日本の空の曙
日本ではライト兄弟の動力飛行成功の12年前である明治24 (1891)年に二宮忠八が現在の飛行原理にもつながるプロペラをゴム動力で動かす模型飛行機の飛行に成功している。カラスが滑空して降りてくる様子を見て、翼を動かさなくても大気に抵抗する斜面とこれに打ち勝つ力を与える装置があれば飛行機はできるという二宮忠八の「飛行の原理」は現在では正しかったことが実証されている。日本で「飛行機」という言葉は森鴎外が小倉日記の明治34 (1901)年3月1日の日記の中で初めて使ったとされている。
軍医として九州、小倉に勤務している鴎外のもとを矢頭良一という22歳の青年が訪れこうじょう原理という論文を示しこれが縁で鴎外の支援を受けながら生涯「羽ばたき翼機」の製作に執着したとされている。当時の限られた情報の中で奇しくも米国と欧州、 日本という三極で、空へのチャレンジがなされていたことになる
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