第二次世界大戦後、日本には続々と航空会社が誕生しました。やがて、政府主導で、
国際線主体の日本航空、国内幹線主体の全日空、国内ローカル線主体の東亜国内航空という三社体制が確立します。
日本で初めて飛行機が飛んだのは、1910年の代々木練兵場における公開飛行とされる。そして第一次大戦後、郵便輸送を目的とする民間航空会社が誕生する。
22年には、日本航空輸送研究所が大阪-高松-徳島間で水上機を利用した郵便輸送を開始。その後、28年に発足した日本航空輸送(現在の日本航空とは別会社)により、東京-大阪-福岡線の定期旅客便や満州行き等の国際線が開設される。
だが、次第に軍事色が強まり、30年代末からは政府出資の国策会社である大日本航空(日本航空輸送を改組して発足)が日本の空を独占する。そして、太平洋戦争が勃発すると、民間航空の活動は完全に休止へと追いやられることになる。
戦後の復活と日本航空の誕生
日本の民間航空輸送は、昭和に入って間もなく設立された国策会社、日本航空輸送(のちに改組され、大日本航空)で本格的に立ち上がり、最盛期にはアジアや西太平洋までに路線網を広げていました。しかし、1945年に第二次世界大戦が終結すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、一切の航空事業が禁止されます。
51年に、ようやく日本企業による航空会社設立が認められ、戦後初の民間航空会社である日本航空による、東京―大阪―福岡線の運航が始まりました。
ただ、まだこのときは、米ノースウエスト航空への運航委託という形態でした。翌年の52年にサンフランシスコ講和条約の発効で日本の主権が回復すると間もなく、航空法や航空機製造事業法が施行され、日米航空協定も締結されます。ただ、当時の日本の民間航空会社は、国際線を運航するにはまだ脆弱でした。そこで政府は、日本航空を「日本航空株式会社法」に基づく特殊法人として改組し、国が全面的に支援する体制を整えます。
これにより日本航空は資本金20億円の半分を国が出資する特殊法人となり、ナショナルフラッグキャリア(国を代表する航空会社)として、新たなスタートを切った。
以来、民間企業が次々に出現。全日空の前身である日本ヘリコプター輸送が52年、旧・日本エアシステムの前身である東亜航空が翌年に設立されるなど、日本の航空産業は黎明期を迎える。そして54年、初の国際線である東京-ホノルル-サンフランシスコ線が就航しました。
58年には、日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、全日空が誕生する。71年には運輸省(当時)の指導により、日本国内航空と東亜航空が合併して、東亜国内航空が生まれる。日本の航空業界はこうした統合・合併を繰り返しながら、大手3社に集約されていったのだ。
2.政府主導で三社体制が確立
日本航空の設立と前後して、新たに民間航空事業へ参入する企業が相次ぎ、10社近い航空会社が設立されました。しかし、当時は航空需要が小さく、各社の経営はなかなか安定しませんでした。そこで、当時の運輸省(現国土交通省)主導で、航空会社の再編が進められます。
まず、58年、日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併して、全日本空輸(全日空)が発足しました。64年には、日東航空、富士航空、北日本航空の三社の合併により日本国内航空が誕生し、同社はさらに71年に、東亜航空と合併して東亜国内航空(のちの日本エアシステム)となり、ここに、長く日本の空を寡占する大手三社が出そろいました。
72年に、のちに「航空憲法」と呼ばれる運輸大臣通達が出され、そのなかで、日本航空は国際線と国内幹線、全日空は国内幹線と国内ローカル線(および近距離国際
チャーター便)、東亜国内航空は国内ローカル線(一部幹線を含む)と、各社の事業範囲が定められました。政府主導のもとに過度な競争を排し、航空会社の経営基盤を強化しようとするこの枠組みは、閣議了承と大臣通達が行われた年(昭和)から「四五/四七体制」と呼ばれ、日本が高度経済成長を続けるなか、85年まで続きました。
「航空憲法」の廃止
1978年、新東京国際(成田)空港が開港し、既存の東京国際(羽田)空港と合わせた首都圏の発着枠が拡がると、国際線および国内線への航空会社、路線の新規参入が容易になりました。同年、米国では航空規制緩和法が成立し、80年代に入ると航空市場の自由化が世界的なトレンドとなります。85年には、日米の二国間航空交渉の改定により、かねてより要望されていた日本貨物航空の米国線就航と、複数の旅客航空会社による米国線への新規参入が認められました。
こうした状況を背景に、86年、運輸省の運輸審議会は、保護政策色の濃かった四五/四七体制に代わる新たな航空政策を答申します。その骨子は、
①全日空と東亜国内航空の国際線参入
②日本航空の完全民営化
③国内路線の3社運航(ダブルトラック)や3社運航(トリプルトラック)化の推進など
規制緩和による競争促進を狙ったものでした。これを受け、86年、全日空が成田―グアム線で、88年には、日本エアシステム(東亜国内航空から改称)が成田―ソウル線で、それぞれ国際定期路線に参入する一方、日本航空も86年の羽田―鹿児島線を皮切りに、国内ローカル線網を急速に拡大していきます。87年には、日本航空の完全民営化も実現しました。
新規航空会社が競争に参入
当初、ダブルトラックについては年間需要70万人以上、トリプルトラックは同100万人以上といった基準がありましたが、これは段階的に緩和され、97年には完全撤廃されます。また、96年には運賃規制緩和の第一歩として、幅運賃制度が導入されています。
そして97年、羽田空港に三本目の滑走路が完成して大幅な増便が可能になると、運輸省は、新規航空会社の羽田参入を認めました。これを受けて、98年、国内幹線としては35年ぶりの新規参入となるスカイマークエアラインズ(のちのスカイマーク)が羽田―福岡線を就航、同年12月には北海道国際航空も羽田―札幌線を就航します。
2000年に施行された改正航空法では、路線の開設および撤退が免許制から許可制に、運賃も認可制から事前届出制に改められました。航空会社にとっては、路線や運賃の自由度が大幅に増した分、さらに激しい競争にさらされることになったのです。こうした状況を背景に、02年、日本航空と日本エアシステムは経営統合に踏み切ります。航空業界が、「JALとANAの二大グループ+新興エアラインズ」という図式になってから、まだ数年に過ぎないのです。
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