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航空機大国アメリカの航空産業の歴史は戦争と深いかかわりがある

アメリカの航空産業の歴史は戦争と深いかかわりがある
1.強大な基礎工業力をバックに航空大国へ
ご存じの通りアメリカは、世界で初めて航空機による動力飛行を成し遂げた国家だ。
しかし、その後は国家政策で陛界の紛争から距離を置いていたこともあり、軍事技術としての航空機産業の発展については、フランス、イギリス、 ドイツなどからあきらかに遅れを取ることとなった。そうした状況は1930年代に入っても変わらず、アメリカの航空機は、極めて保守的かつ堅実な設計に終始していた。

そんなアメリカの航空産業が一人躍進を遂げる契機となったのは、スペイン内乱を経て、勢いに乗るドイツが第二次世界大戦の口火を切ったことだった。当初は静観を決めていたアメリカだったが、友好国の求めに応じ後方での軍需製品支援体制が強化されるようになると、必然的に航空機産業も活性化し、それと同時に新型機の開発にも拍車がかかることとなった。

1930年代後半から1940年代初めにかけて、アメリカの航空機産業における最大のトレンドは、ターボチャージャーによる二段過給の実用化だった。これをとりいれた、新型の四発重爆撃機ボーイングB―17は、一躍世界の注目を集めることとなった。

また折からの双発戦闘機ブームに乗って、ロッキードP-38ライトニングもまた、ターボチャージャーを装備した高々度戦闘機という新たなカテゴリーを世界に知らしめ、アメリカの技術力を誇示する上で極めて大きな役割を果たしたのである。

そして1941年12月8日、対日戦である太平洋戦争が勃発したことで、連合国側の後方支援に徹していたアメリカは、太平洋戦域に加えヨーロッパ戦線においても参戦を表明。

航空機産業は一層の活気を呈することとなった。太平洋戦域では、緒戦を制した日本海軍の零戦対策のため、新型戦闘機開発と新戦法の具体化に着手。ヨーロッパでは不足していた航続距離の長い戦闘機の早期充足を図ることとなる。

前者はグラマンF6Fヘルキャット、後者ではリパブリックP-47サンダーボルトを経て、ノースアメリカンP―51マスタングが登場する大きな契機となった。

次第に、連合国側の空軍力は、アメリカの支援なしには成立しなくなっていった。イギリス空海軍、フランス空軍、ソ連空軍など、アメリカからのレンドリースという形で送り込まれた各種航空機は膨大な量に上った。一方、アメリカ国内では対日戦の激化に対応してボーイングB―29という決定版的な四発重爆撃機を送り込み、大勢は決する。

昭和20年(1945年)8月15日。3ヶ月前に終結したヨーロッパ戦に続き、太平洋戦争も終結した。その時点でアメリカ陸海軍は、5年前とは比較にならないレベルの航空戦力を保持しており、それは昭和25年(1950年)に勃発する朝鮮戦争において大きな力を発揮することとなるのである。



2.航空機開発における最新技術の集合体
爆撃機の歴史の中で、真の意味での「重爆撃機」に相当する四発爆撃機の開発に最も熱心だったのは、1920年代から1930年代にかけてのソ連空軍だった。そこで登場したツポレフTB3は、初期の四発爆撃機としては出色の出来だった。

しかし1930年代の終わりにアメリカ陸軍航空隊のボーイングB-17が登場、すっかり色褪せてしまった。B‐ 17は「フライングフォートレス(空の要塞)」というニックネームそのままに、従来の航空機のレベルを超えた高性能で各国の技術者を驚かせた。高々度飛行を可能とするターボチャージャーによる二段過給の実用化などがその具体例である。

アメリカ陸軍航空隊は、この後もB-17のコンセプトをそのまま引き継いだコンソリデーテッドB-24を戦線に投入。B-17と共に数回にわたる改良を行い、ヨーロッパ戦線における主力戦略爆撃機として連合国側の勝利に大きく貢献した。

そして、これらアメリカ製重爆撃機の決定版的存在となったのが、太平洋戦争での使用を想定して開発されたボーイングB-29だった。与圧キャビンを備えた完璧な高々度仕様の機体は、相対する日本人にとって恐怖の存在以外の何物でもなかった。ちなみに終戦前にソ連領内に不時着したB-29に注目したソ連政府は、完全コピーのツポレフTu4を製造している。

さてこの他に四発重爆撃機を実戦に投入した国はそう多くはない。まずイギリスには名機の誉れ高いアヴロ。ランカスターがあった。ボーイングB_17と同時代同レベルの機体であり、B-17とB-24がイギリス本土から出撃しドイツ領内に対する高々度昼間爆撃任務を担っていたのに対して、ランカスターは比較的低高度で進入し夜間精密爆撃を担うという任務分けがなされていた(他にダム爆撃なども知られている)。

イギリスではランカスターとスピットファイアとモスキートが、「英国を救った3機」と高く評価されており、その発展型の対潜哨戒機のアヴロ。シャクルトンに引き継がれ、戦後も長く使用された。イギリスの四発重爆撃機には、他にもアヴロ・リンカーンやハンドレページ・ハリファックスなどがある。

ドイツや日本において、四発機は基本的にはマイナーだった。ドイツの場合は大戦初期からフォッケウルフFw200コンドルが対艦攻撃に特化した爆撃機として実用化されていたが、旅客機を改造したものであり、機能性はそれほど高くはなかった。大戦末期にはハインケルHe177が実戦配備されたものの、この機体は四発ながらプロペラは2基という変わり種で、エンジントラブルを多発したため実戦での運用実績はわずかだった。

日本は飛行艇こそ早い時期から四発が実用化されていた一方、陸上機は海軍の十三試大攻こと「深山」が少数試作され、その一部が輸送機として使われただけで、爆撃機としての実績はなかった。また終戦直前には十八試陸攻「連山」が制式採用直前まで行ったものの、結局実戦には間に合わなかった。

3.大型旅客機時代
アメリカ製旅客機主流時代へ
第二次世界大戦中に軍用輸送機として活躍したアメリカのダグラスDC-4輸送 機(四発プロペラ式)は、世界中で平和利用されたが、与圧式(高空で客室内を低空に近い気圧にする)でないので、快適性にすぐれなかった。よってまもなく登場した本格的な旅客輸送機のDC-6Bやロッキード・コンステレーションにバトンタッチした。

そしてついに、世界最初のジェット旅客機コメットがイギリスのデハビランド杜で完成し、1952年5月から南アフリカ路線で飛び始めた。 しかし1年後に事故が連続発生し、調査で機体の設計上の欠点が指摘され、一時期ジェット旅客機の開発がとん挫するかにみえたが、遅れをとったアメリカはボーイング社がB707を、ダグラス社がDC-8をそれぞれ完成させて対抗する。

いずれもコメットより大きい140席(コメッ卜は70席)のジェット旅客機で、 安全性も確保されていた。 1958年10月にパンアメリカンが大西洋線にB-707を就航させると、世界中の 航空会社が競争でプロペラ機をジェット旅客機に交代させるようになった。

日本航空も1960年7月から太平洋路線にDC-8を就航させ、いよいよ民間航空 のジェット時代が開幕した。速度がピストン機の約2倍となったので、旅客にとって地球がせまくなり、世界の人々の行動範囲が広がったのである。

1963年にボーイングB727(129人乗り)が登場して、中・短距離の路線で活躍し、続いてボーイングB737やダグラスDC-10が国内のローカル線を飛び始めた。

世界的に航空旅客の急増が続いて、1970年からボーイングB-747ジャンボ機 が国際線の主役となり、翌年の8月にはダグラスDC-10もアメリカ国内の路線に就航し、これらのワイドボディ機による大量輸送時代が始まった。これも推力20tの強力なターボファンエンジンが実用化されたおかげである。

一方、エンジンの排気騒音が高いB707やDC-8は第一線からすがたを消し、広 胴ジェット機はまさらにロッキードL-1011やエアバスA300が登場した。音速の2倍以上の速度で飛ぶ超音速旅客機のコンコルドも開発され、大西洋横断路線に就航したが採算がよくないので運航中止になった。現在は音速以下で飛ぶ経済性のよいジェット旅客機が主役である。

最新の技術によって、操縦をはじめ複雑なシステムの操作や監視などの仕事を自動化し、ふたりのパイロットで大型機を飛ばすことができる時代になった。その代表としてボーイングのB747-400、B767、B777やエアバスのA320などが日本の空を飛んでいる。

また、B767やB777は、開発の段階から日本の航空機メーカーが参加し、胴体 や翼の一部を生産している。また総二階建て飛行機として知られる、エアバス社のA380にも、日本製の製品が使われている。このように、日本の航空産業も、旅客機製造にカを貸している事を知っておいてほしい。

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