プロペラ機のスピードアップ
1939年9月にドイツと連合国との間に戦争がおこり、さらに1941年12月に日本がアメリカやイギリスと戦い始めて第二次世界大戦となった。この間に飛行機が再び兵器として急速な進歩をとげたことは、歴史の皮肉な1ページであった。
特に機体のスピードが勝敗を分ける、戦闘機の性能が飛躍的に向上した。イギリスのスーパーマリン・スピットファイアとドイツのフォッケウルフW190は、どちらも高度6000mで、時速650キロを出した。日本の零式艦上戦闘機(航空母艦から発着する)は、高度6000mで、時速560キロだったが、運動性能がすぐれていたので、大戦前半の空中戦では常に敵を圧倒する性能をもっていた。
ターボチャージャーの登場
爆撃機も任務により機能を細分化し、いろいろな機種が生まれたが、日本人にとって忘れがたいのは、マリアナ群島から洋上を飛んで、本土を空襲したボーイングB-29「超空の要塞」であろう。
B-29は当時世界最大級の大きさで、与圧式(高空で機内を低空に近い気圧にする)の操縦室と排気ガスのエネルギーを利用して、混合気を強制的にエンジンに送り込めるターボチャージャーを装備し、1万mの高空を悠々と飛んだ。迎え撃つ日本の戦闘機は、この高度まで達することはできず、B-29は日本の主要都市に壊滅的な打撃を与えた。
ジェット時代の幕開き
プロペラ式の飛行機は、大戦中急速にスピードアップしたが、時速750キロ付近が限界だった。これは、プロペラの羽根先端の速度が音速に達してしまい、プロペラが失速するという現象がおこったからだ。失速したプロペラは推進力を生むことはできない。
この問題に早くから気がついて、ピストンエンジンでプロペラを回す方式ではなく、ジェットエンジンで飛行機を飛ばそうと研究していたのは、ドイツとイギリスであった。
戦争中も両国は研究を続け、イギリスはグロスター・ミーティア双発ジェット戦闘機を1944年8月から実戦に参加させ、ドイツも後退翼をもつ双発ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262を1945年3月から実戦に投入していた。これらのジェット戦闘機が、今のジェット機全盛時代の幕を開けることになった。
第二次世界大戦中に始まった電子戦
第二次世界大戦中にレーダーが実用化され、これまで肉眼に頼っていた照準が、レーダーによってなされるようになった。レーダーとは、電波を前方に発し、その反射して戻ってくる電波の速度を計算し、肉眼では確認できないほどの彼方の物を画像としてとらえる電子機器である。
レーダーも戦争によりその開発はすすみ、大戦末期ごろになると飛行機への搭載も始まり、夜間攻撃などで活用されるようになった。連合軍の艦船に搭載されたレーダーには、すでにレーダーで照準をつけるレーダー射撃が実用化されていた。
アメリカ海軍は視界のきかない霧の中や、夜間に射撃を行い、日本海軍にダメージを与えることに成功している。日本はこの電子機器の開発に手間取り、視界のきかない戦場や長距離からの砲撃に防戦一方であった。このようなレーダーなどを使い、見えざる敵と戦うことを電子戦と呼ぶ。
虚像までをも映し出す電子戦機
電波はまっすぐに飛んでいく性格がある。たとえば地平線上に山脈などがあるとレーダーから放った電波は山にあたり戻ってきてしまう。つまり山の向こうの敵はとらえることができないのだ。
そこで強力なレーダーを搭載した飛行機が登場した。このような飛行機は早期警戒機と呼ばれ、戦場の上空を飛び続け、味方に敵の位置を無線で知らせる。飛行機は上空から電波を照射できるので、山脈などの地上の障害物に影響を受けることがない。
現在では、直接昧方の戦闘機のコンピュータに、敵の場所などのデータを送れる早期警戒管制機が登場している。一般にこの役割を果たす飛行機をAWACS(Airborn Warning and Control System)機と呼ぶ。AWACS機も電子戦機の仲間である。AWACS機は民間機を改造してつくられることが多い。
AWACS機よりももっと積極的に電波を利用する機体もある。これは、敵の飛行機や地上の基地から発せられる電波を妨害する飛行機である。このような妨害をECM(Electronic Counter Measures)妨害と呼ぶ。
ECM妨害装置を積んだ飛行機は、戦闘機や爆撃機が戦地に到着する前に戦場におもむき、敵のレーダーや通信を妨害する。レーダーを無力化するばかりではなく、偽の像を敵のレーダーに映すことも可能である。
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!